「アホの坂田」という愛称でも親しまれ、吉本興業のベテラン芸人「坂田利夫」さん
2023年12月29日に老衰のため亡くなりました。
「坂田利夫」さんは芸歴60年以上のベテランの芸人さんでしたが、若い頃はどうだったのか、どんな学歴や経歴の持ち主なのか気になります。
この記事では、
- 坂田利夫さん若い頃はどうだった?
- 坂田利夫さん学歴・出身校は?
- 坂田利夫さん経歴は?
「坂田利夫」さんの若い頃はどうだったのか、学歴や経歴についてご紹介していきます。
「坂田利夫」さんの若い頃やこれまでどんな人生を歩んでこられたのか気になる方におすすめの内容となっています。
記事最後の「まとめ」にこの記事を簡単にまとめています。
お急ぎの方は「目次」から「まとめ」に飛んでサクッと記事の内容をご確認くださいね!
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坂田利夫さん若い頃はどうだった?
坂田利夫さんの若い頃のエピソード
- 坂田利夫さんが子供の頃、よく知らない人やチンドン屋についていったことで迷子に。「この子は病気です、どうか家にお届けください」という札をつけられていた
- 実妹の結婚式で「ふつつかな妹ですが」と言うところを「ふしだらな妹ですが」と言い間違えた
- 若手芸人時代に先輩芸人から「ゆで卵を水なしで一気食いしたら小遣いをやる」と言われ、黄身が喉に絡まって窒息死寸前になったことがある
- 飛行機が大の苦手で、北海道旭川まで陸路23時間かけて行ったことがある
- 小豆島へ仕事で行ったが、相方が見当たらなかったため”淡路島”と聞き間違えたと勘違いし”淡路島”へ行ってしまった
- 「アホの坂田のテーマ」が大ヒットしたとき、春のセンバツ大会入場行進曲に内定していたが、「サカタ」姓の子供たちがいじめにあうことが増えて却下に。代わりに水前寺清子の「365歩のマーチ」が内定した
坂田利夫さんの若い頃のエピソードは上記の通りです。
芸人「坂田利夫」という表の顔とプライベートの裏の顔も変わらないお人柄だったのが伺い知れるエピソードばかりです。
生まれながらにして「芸人」の素質を持ちあわせた方だったようですね!
ちなみに「坂田利夫」さんの若い頃を下記でご紹介します。
— ミスタータイガース (@SK_tigers565622) October 15, 2022ミスタータイガース@SK_tigers565622 Xより引用
元プロ野球選手でもあり、阪神タイガース監督「岡田彰布」さんとCM共演したことも。
当時このCMの影響で「どんでんねん」が流行った記憶が…。
紺碧@umiwakonpeki Xより引用1989年7月5日放送 テレビ朝日 #水曜スーパーテレビ より📼
— 紺碧 (@umiwakonpeki) August 22, 2022
『新伍のお楽しみ教室』と称して、アイドルや歌手が大喜利に挑戦。
「格言をひねって面白く!」というお題で、33年経っても忘れられなかったニッキさんの回答がこちらです。#錦織一清 #植草克秀 pic.twitter.com/YUrdwsKHuK
今から約34年前にテレビ出演されていた頃の「坂田利夫」さん
植草克英さんの後ろに座っていますが、当時48歳でした。
冗談絵巻 – JODAN EMAKI -@3vMaFkTDSortYAl Xより引用■ コメディNo.1
— 冗談絵巻 – JODAN EMAKI – (@3vMaFkTDSortYAl) December 23, 2021
1967年結成。元々は「吉本新喜劇」の座員であったが西川きよしからの勧めで漫才に転身。1970年4月の「上方漫才大賞」新人賞受賞を皮切りに数多くの漫才賞を受賞、1972年にはキダ・タロー作詞「アホの坂田」は6万枚を売り上げた。2009年にコンビは解散となった。@retoro_mode pic.twitter.com/WzYebkl3S8
坂田利夫さんはピン芸人ではなく、相方がいる漫才芸人でした。
これはかなり若い頃の様子ですね!
相方の前田五郎さんも2021年79歳で亡くなられています。
坂田利夫さんはどんな人生を送られてこられたのか、学歴やこれまでの経歴について下記でご紹介していきます。
坂田利夫さん学歴・出身校は?
- 出身小学校「大阪市立田中小学校」
- 出身中学校「大阪市立港中学校」
- 出身高校「此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)」
「坂田利夫」さんのこれまでの学歴・出身校は上記の通りです。
「坂田利夫」さんの出身校の詳細など下記でご紹介します。
大阪市立田中小学校
大阪市立港中学校
此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)
坂田利夫さん経歴は?
坂田利夫 経歴
1941年10月 | 大阪府大阪市港区に生まれる |
1961年 | 吉本新喜劇の研究生として吉本入り |
1967年 | 前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ、コメディNo.1を結成 |
1971年 | 昭和45年度 第1回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞受賞 |
1972年8月 | レコード「アホの坂田」発売 |
2009年 | コメディNo.1解散 |
「坂田利夫」さんは、1961年吉本新喜劇の研究生として吉本入りされていますが、実はこのときのオーディションは落選していました。
しかし大正から昭和の名漫才師・花菱アチャコさんの推薦を受けて吉本入りができたとか。
元々喜劇俳優だった坂田さんでしたが、「やすしきよし」で人気漫才師となった西川きよしさんに「漫才は儲かるで」と勧められ漫才師へ転向、前田五郎さんと共に「コメディーNO.1」を結成されました。
その後「上方漫才コンテスト」にて最優秀話術賞を受賞したこともあり、「アホの坂田」というレコードが発売されました。
この曲がなんと大ヒット!
上記でもご紹介しましたが、この曲は春のセンバツ入場行進曲として内定、しかし「サカタ」姓の小中学生がいじめにあうことが増え、却下となりました。
「アホの坂田」という曲がどんな曲なのか気になりますね!
45歳以上の方は一度は耳にしたことがある曲ではないでしょうか?
「アホの坂田」の曲は下記のYouTubeで聞くことができます。
アホの坂田 (youtube.com) youtubeより引用
そして気になるのは大人気漫才コンビだった「コメディーNO.1」がなぜ解散にいたったのかということです。
その理由は、相方の前田五郎さんが中田カウスさんへの脅迫状送付事件に関与したと一部報道されたことにより、2009年8月31日をもって「コメディーNO.1」は解散することとなりました。
この時相方の前田五郎さんは吉本興業を解雇されています。
その後坂田利夫さんはピン芸人として活動され、最晩年は老人ホームに入所されていたようです。
前田が2009年4月3日に起きた中田カウスへの脅迫状送付事件に関与していたと一部で報道されたため、「世間を騒がせた」という理由で同年5月25日よりタレント活動を休養。同年7月21日、吉本興業は前田が大阪府警南警察署より参考人として任意の事情聴取を受けたことを明かし、あわせて同年8月31日をもってコメディNo.1の解散を発表した。その後、前田は吉本興業を解雇された
コメディNo.1 – Wikipedia より引用
まとめ
坂田利夫さんの若い頃はどうだったのか、学歴や経歴についてご紹介しました。
坂田利夫さんの若い頃のエピソードは、
- 坂田利夫さんが子供の頃、よく知らない人やチンドン屋についていったことで迷子に。「この子は病気です、どうか家にお届けください」という札をつけられてた
- 実妹の結婚式で「ふつつかな妹ですが」と言うところを「ふしだらな妹ですが」と言い間違えた
- 若手芸人時代に先輩芸人から「ゆで卵を水なしで一気食いしたら小遣いをやる」と言われ、黄身が喉に絡まって窒息死寸前になったことがある
- 飛行機が大の苦手で、北海道旭川まで陸路23時間かけて行ったことがある
- 小豆島へ仕事で行ったが、相方が見当たらなかったため”淡路島”と聞き間違えたと勘違いし”淡路島”へ行ってしまった
- 「アホの坂田のテーマ」が大ヒットしたとき、春のセンバツ大会入場行進曲に内定していたが、「サカタ」姓の子供たちがいじめにあうことが増えて却下に。代わりに水前寺清子の「365歩のマーチ」が内定した
坂田利夫さんの学歴・出身校は、
- 大阪市立田中小学校
- 大阪市立港中学校
- 此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)
坂田利夫さん経歴は?
- 1941年10月 大阪府大阪市港区に生まれる
- 1961年 吉本新喜劇の研究生として吉本入り
- 1967年 前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ、コメディNo.1を結成
- 1971年 昭和45年度 第1回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞受賞
- 1972年8月 レコード「アホの坂田」発売
- 2009年 コメディNo.1解散
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